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第2話 恋敵は流産を知っていた

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-08-03 00:44:45

 医務スタッフは傷を浅いと判断した。縫合は不要。腱にも神経にも異常なし。指先の感覚も正常。

 結果を項目に分ければ、安心してよいはずだった。

 それでも私が見ていたのは、景都の親指についた血だった。私の血を拭ったまま、本人は気づいていない。

「もう離して」

 固定用のテープを押さえていた指が、数秒遅れてほどけた。景都は血のついたハンカチを四つに畳んだ。

「それ、もう捨てて。血もついてるし」

「洗えば落ちる」

「新しいの、いくらでもあるでしょ」

「これは、まだ使える」

 新しい物なら、彼はいくらでも買える。結婚していた頃、傷んだワイシャツもネクタイも迷わず処分していた。それなのに、白い布だけはポケットへ戻した。

 理由を聞けば、ハンカチ以外の答えまで期待してしまいそうで、私は黙った。

 控室へ戻る廊下で、瀬名がスタッフと話していた。私を見ると、眉尻を下げる。

「真帆さん、大丈夫ですか?」

 ついさっき、私の傷を抉った人とは思えない声だった。

「……誰に聞いたの、それ」

 近くのスタッフが顔を上げる。瀬名はその視線を確かめてから、少し困った顔を作った。

「今、聞きます?」

「いつなら言うの」

「景都さんが、話せるようになった時じゃないですか?」

 スタッフが離れる。

 瀬名の笑顔が、少しだけ薄くなった。

「……秘密だったんですね」

「だから、誰に聞いたの」

「私に聞かれても」

 瀬名は赤いスカートの裾を直した。

 声だけが、少し低くなる。

「……そこは言えないです」

 その時、廊下の向こうからスタッフが戻ってきた。

 瀬名はすぐに眉尻を下げる。

「無理しないでくださいね。傷、痛そうだから」

 カメラがあれば、その一言だけが残る。

 瀬名はスタッフに呼ばれ、赤いスカートを揺らして去った。

 その夜、番組公式アカウントが最終週の予告を公開した。

 薄暗い廊下。壁際の景都。瀬名が彼のネクタイへ手を掛け、背伸びをする。赤い唇が頬へ触れる寸前で画面が暗転した。

『FINAL WEEK――元妻か、新しい恋か』

 実際に触れたかどうかは映っていない。それでもコメント欄では、二人はすでにキスをしたことになっていた。

『元妻の前で新しい女とキスとか、えぐい』

『結局、若い女を選ぶんだ』

『水城さん、かわいそう』

 かわいそう。

 その五文字を見た時、浮かんだのは景都の顔ではなく、会社の机だった。mellow noteの新作ポーチ。サンプルは明日の午後、工場へ戻さなければならない。

 動画の中では可哀想な元妻でも、朝になれば私は商品企画の担当者だ。

 スマートフォンに通知が増えた。

 番組出演者とスタッフだけのグループチャットだった。

 瀬名から、

『真帆さん、今日は本当に大丈夫でしたか? 無理しないでくださいね』

 その下に、スタッフの〈お大事に〉が続く。

 私は返信欄を開き、閉じた。

 耳元で言われた言葉は、ここには一文字もない。

 電話が鳴った。灯だった。同じ会社で広報を担当している彼女の受話口の向こうで、別の電話も鳴り続けている。

「真帆、動画見た? こっち、問い合わせが来てる。『不倫女の商品を売るな』とか」

「もう夫でもないのに、どうして私が不倫女になるの」

「今そこ気にしてる場合じゃないでしょ」

 怒っていた灯の声が、仕事の調子へ変わった。

「明日は会社に来ないでって。部長から」

「私から説明する」

「今は広報に任せなって。真帆が出たら、また撮られるから」

 通話が切れた直後、景都からメッセージが届いた。

『会社へ行くな。今対応してる』

 私はすぐに返した。

『私の仕事なの。私に何も言わずに進めないで』

 既読はついた。入力中の表示が出て、消えた。

 返事は来なかった。

 助けてほしいとは、まだ一度も言っていない。

 それでも瀬名の十二秒と景都の判断が、番組の外にある私の仕事へまで入り込んでいた。

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