เข้าสู่ระบบ医務スタッフによると、傷は浅く、縫う必要もないという。腱や神経に異常はなく、指先の感覚も失われていなかった。
結果を項目に分ければ、安心してよいはずだった。 それでも私が見ていたのは、景都の親指についた血だった。私の血を拭ったまま、本人は気づいていない。 「もう離して」 固定用のテープを押さえていた指が、数秒遅れてほどけた。景都は血のついたハンカチを四つに畳んだ。 「それ、もう捨てて。血もついてるし」 「洗えば落ちる」 「新しいの、いくらでもあるでしょ」 「これは、まだ使える」 新しい物なら、彼はいくらでも買える。結婚していた頃、傷んだワイシャツもネクタイも迷わず処分していた。それなのに、白い布だけはポケットへ戻した。 理由を聞けば、ハンカチ以外の答えまで期待してしまいそうで、私は黙った。 控室へ戻る廊下で、瀬名がスタッフと話していた。私を見ると、眉尻を下げる。 「真帆さん、大丈夫ですか?」 ついさっき、私の傷を抉った人とは思えない声だった。 「……誰に聞いたの、それ」 近くのスタッフが顔を上げる。瀬名はその視線を確かめてから、少し困った顔を作った。 「今、聞きます?」 「いつなら言うの」 「景都さんが、話せるようになった時じゃないですか?」 スタッフが離れると、瀬名の笑顔が少しだけ薄くなった。 「……秘密だったんですね」 「だから、誰に聞いたの」 「私に聞かれても」 瀬名は赤いスカートの裾を直し、少し声を落とした。 「……そこは言えないです」 その時、廊下の向こうからスタッフが戻ってきた。 瀬名はすぐに眉尻を下げる。 「無理しないでくださいね。傷、痛そうだから」 カメラがあれば、その一言だけが残る。 瀬名はスタッフに呼ばれ、赤いスカートを揺らして去った。◇
その夜、番組公式アカウントが最終週の予告を公開した。
薄暗い廊下。壁際の景都。瀬名が彼のネクタイへ手を掛け、背伸びをする。赤い唇が頬へ触れる寸前で画面が暗転した。 『FINAL WEEK――元妻か、新しい恋か』 実際に触れたかどうかは映っていない。それでもコメント欄では、二人はすでにキスをしたことになっていた。 『元妻の前で新しい女とキスとか、えぐい』 『結局、若い女を選ぶんだ』 『水城さん、かわいそう』 かわいそう。 その五文字を見た時、浮かんだのは景都の顔ではなく、会社の机だった。mellow noteの新作ポーチ。サンプルは明日の午後、工場へ戻さなければならない。 動画の中では可哀想な元妻でも、朝になれば私は商品企画の担当者だ。 スマートフォンに、番組出演者とスタッフだけのグループチャットの通知が届いた。瀬名からだった。 『真帆さん、今日は本当に大丈夫でしたか? 無理しないでくださいね』 その下に、スタッフの〈お大事に〉が続く。 私は返信欄を開き、閉じた。 耳元で言われた言葉は、ここには一文字もない。 電話が鳴った。灯だった。同じ会社で広報を担当している彼女の受話口の向こうで、別の電話も鳴り続けている。 「真帆、動画見た? こっち、問い合わせが来てる。『不倫女の商品を売るな』とか」 「もう夫でもないのに、どうして私が不倫女になるの」 「今そこ気にしてる場合じゃないでしょ」 怒っていた灯の声が、仕事の調子へ変わった。 「明日は会社に来ないでって。部長から」 「私から説明するよ」 「今は広報に任せなって。真帆が出たら、また撮られるから」 通話が切れた直後、景都からメッセージが届いた。 『会社へ行くな。今対応してる』 私はすぐに返した。 『私の仕事なの。私に何も言わずに進めないで』 既読はついた。入力中の表示が出ては消え、返事は来なかった。 助けてほしいとは、まだ一度も言っていない。 それでも瀬名の十二秒と景都の判断が、番組の外にある私の仕事へまで入り込んでいた。婚姻届を出した翌朝、目覚ましより先に鍋の音で目が覚めた。嫌な予感がして台所へ行くと、景都が粥を作っている。「結婚した翌朝に、どうして粥なの」「米が余ってた」「病人みたい」 景都は笑って火を止めた。同じ鍋から二つの茶碗へよそい、塩の瓶は私が先に取る。二回振ると、向かいでは景都が一回だけ足した。 同じ粥なのに、今日も味は違った。 粥は前より少し米粒が残っていた。景都が何度か作るうちに、私がその方を好むと覚えたらしい。聞けば得意そうに説明しそうなので、黙って食べた。 テーブルの端には、昨日役所でもらった控えが置いてある。戸籍上の名字は変わったが、鞄の名刺入れには水城真帆のカードがそのまま入っている。 景都が控えへ一度目をやった。「違和感ある?」「まだある。でも、慣れてないだけ」 それ以上、名前の話はしなかった。 食べ終える頃、瀬名のことが頭をよぎった。もしあの夜がなければ、と考えかけ、茶碗を流しへ運ぶ。水を出すと、考えもそこで途切れた。 景都が鍋を洗い、私は水切り籠へ茶碗を二つ並べた。写真は撮らず、役所の控えもテーブルへ置いたまま。洗った鍋を受け取って拭き、布巾をいつもの位置へ掛ける。 出勤の支度をする。鏡の前で髪を整え、仕事用の名刺を確認する。玄関の鍵置きには二人分の鍵が並んでいた。 玄関を出る前、私は役所の控えを鞄へ入れようとしてやめた。今日は必要ない。テーブルの端へ戻すと、景都も何も言わなかった。昨日まで大事に持ち歩いていた紙が、一晩で生活の中の一枚になっている。 景都が先に靴を履く。「今日、帰り遅い?」「分からない。新商品の会議」「終わったら連絡して」「したくなったらね」 景都は一瞬だけ困った顔をし、それから笑った。 ドアを開ける前、私の名を呼ぶ。「好きだ」 何度聞いても、うまい返し方は思いつかない。私はコートの袖を掴み、そのまま距離を詰めた。「……私も」 エレベーターが来る。景都は先に乗り込まず、開いた扉の脇へ寄った。私
婚姻届を出す前の日、景都と仕事帰りに合流した。特別な食事はせず、駅前のスーパーで牛乳と卵を買う。 景都が袋を全部持とうとしたので、一つだけ渡した。「持てるよ」「知ってる。半分」 牛乳の入った方が明らかに重かった。それでも景都はそのまま持って歩いた。 横断歩道で赤信号に止まった時、景都が明日のことをもう一度確かめた。「本当に出す?」「今さら?」 最後に聞きたかった、と言うので、私は信号の向こうを見ながら少し考えた。「出すよ。景都は嫌になった?」「逆。嬉しすぎて、まだ確認したくなる」「それなら、これで最後」 信号が青になり、歩き出す時に景都の手がこちらへ伸びかけて止まった。私からその手を取る。 指を絡めると、最初だけ強く握られた。顔を見ると景都が慌てて力を抜く。「そのままでいい」 スーパーの袋が歩くたび脚へ当たり、途中で持ち替える。そのたび、つないだ指の角度だけが変わった。 家へ着くと、景都は牛乳を冷蔵庫のいつもの場所へ入れた。私は卵を上段へ置く。「そこ、取りにくい」「私は取りやすい」 俺が取る時は、と続きかけた声を、冷蔵庫の扉を閉める音が切った。「明日から夫になる人も、自分で取って」 景都が笑う。 結婚前夜まで、冷蔵庫の使い方は合わなかった。 テーブルには、明日出す婚姻届を封筒に入れて置いてある。景都が提出時間を確認しようとスマートフォンを取る。「朝起きてから決めよう。役所は逃げないよ」 彼は少し迷ってから端末を伏せた。 夜、牛乳を飲もうとして冷蔵庫を開くと、卵はまだ私の置いた上段にあった。 景都は直していなかった。 夕食後、景都が買い物袋を畳み、私は流しでコップを洗った。明日役所へ行くというのに、話しているのはゴミの日と牛乳の残りだけだった。婚姻届の封筒はテーブルの端にあり、誰も触らない。 寝室へ入る前、景都が封筒をもう一度見た。手を伸ばしかけ、やめる。「何?」と聞くと、「明日忘れないかと思って」と言う。私は玄関の鞄
新しい家が決まった。最初に気に入った窓の大きな古い部屋ではなく、その近くで見つけた少し小さな部屋。駅から六分、台所は二人で立っても肩がぶつからない。 引っ越し初日の朝は、段ボールだらけだった。カップの箱が見つからず、紙コップでコーヒーを飲む。「結婚する家の最初が紙コップ」と私が言うと、景都は「割れないからいい」と平然としている。 ソファもまだ届かず、二人で床へ座った。休む間もなく荷ほどきへ戻る。 景都が炊飯器を持って台所へ行ったが、コンセントと冷蔵庫の扉の間で何度も場所が変わる。私も手伝い、結局、最初に置いた位置から十センチずらしたところで落ち着いた。 最初に届いた大きな荷物は、私の仕事机だった。景都の机より先なのが少しうれしい。窓際へ置いて椅子へ座ると、眩しくないかと聞かれた。「使ってみないと分かんない」と返した。 洗面所の棚には、景都の整髪料と私の化粧水が並ぶ。化粧水が少し傾いていたが、彼は触れない。私が自分で中央へ寄せると、鏡越しに目が合い、二人とも笑った。 午後、古い木製の鍵置きが箱から出てきた。前の家から景都が持ってきたものだ。傷も、鍵で擦れた白い跡も残っている。 使うかと聞かれ、しばらく手に取ってから玄関へ運んだ。今度は、二人の鍵を並べる。 ソファも届いた。景都が寸法通りの位置へ置こうとするのを止め、窓が見える方へ少し斜めにする。二人で座り、あと数センチだけ動かした。そこで決まった。 夜は段ボールの間で、コンビニの惣菜を紙皿へ移して食べた。「新居最初の夕飯だな」と言われ、記念日にしないでよ、と笑う。 段ボールを開くたび、二人の過去が混ざって出てきた。私の古い文房具、景都の仕事資料、前の家の鍵置き。残すか捨てるかは、思い出の有無より、今も使うかどうかで一つずつ決めた。 寝る前、玄関へ行くと鍵が二つ並んでいる。自分の鍵を一度持ち上げ、また戻した。明日の朝、ここから仕事へ行く。景都も別の時間に出て、どちらかが先に帰る。 翌朝、景都が先に起きて湯を沸かしていた。私は寝ぼけたまま、ようやく見つけたカップを二つ出す。 昨日の紙コップを記念に取っておいたかと聞かれ、「何の記念?」と返すと、景都が笑った。
婚姻届をもらってきたのは景都だった。「役所の前を通ったから」 嘘ではなさそうだが、偶然でもない顔をしている。 テーブルへ広げる。氏名、住所、本籍、証人欄。大きな決断なのに、紙の上では罫線と小さな文字ばかりだった。「今日は書くの?」「見せるだけ」 以前の私の言葉を真似している。 名字の欄を見つめる。仕事では水城真帆を使い続けると決めている。戸籍上は、まだ答えがない。景都は自分が変える案も本気で考えていた。「会社、大変でしょう」「手続きはできる」「だから、今は決めない」 二人で用紙を眺める。 しばらくして、自分の名前の欄へ指を置いた。「仕事は水城で続けたい。戸籍は……深見でも、今なら嫌じゃない」 景都が顔を上げる。 口にしてみると、少しだけ喉が乾いた。 瀬名との番組で使った選択札を思い出す。復縁、別離、New Choice。あの札にも管理番号があった。目の前の紙にも番号はあるけれど、カメラへ掲げる必要はない。 書き損じれば、もう一枚もらえばいい。 その夜は何も書かなかった。婚姻届をテーブルに置いたまま夕食を食べ、テレビをつけ、洗濯物を畳む。 景都が用紙をファイルへしまおうとしたので、「まだそこに置いて」と言う。「汚れるよ」「汚れたら、新しいのもらう」 少し嫌そうな顔をした。 翌朝も紙はテーブルの端にあった。コーヒーを置く時だけ二人とも慎重になる。 証人は灯へ頼んだ。電話の向こうで数秒黙ったあと、「やっと?」と言われる。「何年かかったと思ってるの」 説明するのが面倒で、私も笑った。 証人欄はまだ白い。ほかにも決まっていないところがある。それでも朝食の皿は片づき、景都は仕事へ出た。 夕食はスーパーで買った総菜だった。婚姻届のすぐ脇へパックを置くのが落ち着かず、紙だけ少し端へずらす。景都はソースをこぼさないよう妙に慎重だった。「そこまで大事にしなくても」 用紙の角には、朝から何度か触った
家探しを始めて一か月、最初に気になった窓の大きな古い部屋がまだ空いていた。二度目の内見へ行くと、前より生活の形が見える。 ここにソファ。窓際に私の机。景都の仕事部屋は別にして、会議の声が聞こえないよう扉を閉めてもらう。「真帆のオンライン会議も結構大きいよ」「私のは声が通るだけ」 そんなことを言いながら、空の部屋を歩いた。 ベランダへ出る。夕方の風が冷たく、遠くを電車が通る。隣の建物のベランダには洗濯物が二枚だけ揺れていた。まだ誰の家具もない部屋より、そちらの生活感の方が先に目に入る。 手すりへ触れたまま、景都を呼んだ。「何?」「結婚しようか」 景都はすぐには返事をしなかった。手すりに置いた指も、動かない。 自分でも、今言うとは思っていなかった。「今、言いたくなった」 彼が何か確かめようとする前に続ける。「前みたいに、景都の家に入るんじゃなくて。二人で新しい場所を選んで、そこからなら……結婚したい」 最後だけ声が掠れた。 景都が一歩こちらへ来て私の前で止まると、私は自分からその胸へ寄った。 腕が背中へ回り、思ったより強く抱かれたので、コート越しに背中を叩く。「強い」「悪い」「離さなくていい」 空の部屋では声が少し響いた。窓の外を電車が通り過ぎ、その音が遠ざかるまで顔を上げなかった。 以前のプロポーズには、指輪も家も家族への説明も先にあった。今日は契約前の空室で、家具一つない。足元には不動産会社が置いた使い捨てのスリッパがあり、景都の片方だけが少しずれていた。 リビングへ戻ると、不動産担当が給湯器の位置や更新料、ゴミ置き場の説明を続けた。さっき結婚を決めた二人へ向けているとは思えないほど事務的で、その調子に助けられた。 景都が聞いたのも、家賃と配線のことだけだった。 内見を終え、廊下へ出る。不動産担当が何気なく「ご夫婦ですか」と聞いた。 私は景都を見る前に答えた。「まだです。でも、そうなる予定です」 景都は資料を受け
指輪を見に行こうと言い出したのは私だった。記念日でも、誕生日でもない平日の仕事帰り。「今日?」「見るだけ」 予約はしていない。駅ビルの店へ入り、用途を聞かれた時だけ少し緊張した。「結婚指輪を見に来ました」 景都は何も訂正しない。 細いもの、幅のあるもの、石が入ったもの。何本か試すうち、景都が私の好みばかり探していることに気づいた。「自分のも選んで」「俺は何でも」「それは禁止」 店員が笑う。 仕方なく景都も自分の指へ何本か通す。仕事中に邪魔にならないか、なくさないかと、考えることが妙に実用的だ。 私は細い丸みのあるもの、景都は少し幅のある艶消しが気になった。 店員が、お揃いでなくても一組にできると言う。 同じ形ではない二本がトレーの上へ並ぶ。私はしばらくそれを見ていた。 景都の左手を、指輪を選ぶために初めてじっくり見る。長い指、紙で切ったらしい小さな傷。夫婦だった頃にも知っていた手なのに、知らない時間の跡が増えている。 私の手にも仕事でついた傷がある。「今日、決める?」 景都が聞く。「見るだけって言ったでしょう」 候補はあった。でも買わなかった。 店員がサイズを測る時、景都は指を真っすぐ差し出しすぎて、「力を抜いてください」と二度言われた。私は横で笑う。私の番になると、今度は自分の指が妙に硬い。店員は慣れた手つきでリングゲージを入れ替えた。結婚という言葉より、金属が指の節を通る感触の方が現実的だった。 景都は候補の型番を覚えようとし、私は「写真撮ればいいじゃん」と笑った。 彼はようやくスマートフォンを出した。 店を出る前、もう一度二本を並べてもらう。形は違う。内側の刻印だけは、同じ日にしてもいいかもしれないと話した。 帰りの電車で、景都が毎日つけるかと聞く。「仕事によるかな」 少し残念そうな顔をする。「景都も外す時あるでしょう」「ある」 それなら同じだ。 指輪を買うことより、外す日があることまで